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今はそれらを頼りにやっているわけですが、なにぶん現在のように動画があるわけではなし、残されたものはといえば、文章なわけです。そこにはこの手を取って投げるだとか、どこを掴んで極めるとか書いてあるわけですが、文章なのでなかなかイメージしにくいところがあるわけです。
しかし...それをもとにあれこれと考えながら技の形を復元していくわけですが、そのときに考えないといけないのは「片山久安」という人は小柄な人であったということです。まあ、小さい人が大きい人を相手にしてたんだろうということを念頭に置いておくことと、片山伯耆流の根底に流れる思想をくみ取っていくことが肝心。
そして、今も伝承されている居合がとても参考になるということです。居合と体術は別物ではありませんから、居合での体捌きを見ることで体術の動きを推測することができます。それと伝書を併せて考えることで、技の形が復元されていくことになるわけです。
今回も、書かれたとおりにやるとなんのことやらさっぱり分からない技があり、それをどう評価するのかあれこれと考えたのですが、とある一つの形に落ち着くことができました。もちろん、これをさらに精査しなきゃならんわけですが、おそらくは正解の形にかなり近いであろう、と。
実は、片山伯耆流の柔術については竹之内流から派生したものであることが分かってますから、そのうちこちらも研究してみる必要がありそうです。
先週は、雪が降るほどに寒くてとても稽古どころではなかったのですが、今週は若干寒さも和らぎ今日は稽古がありました。
久しぶりに片山伯耆流をやったのですが、どうにも座ることに慣れていないので、最後には膝が痛くて...
それでもかなり雰囲気がつかめてきたところで本日の稽古を締めたわけです。もう少し暖かくなってくれるといいんですけどね。
しかし、片山伯耆流はなかなかに面倒なものです。なにしろ、剣術以外は一度途絶えてますから。ただ、開祖、片山久安がまさに文武両道であったというか、書を残しているんですね。そのおかげでかなりオリジナルに近いところで復元できているようです。
流儀は途絶えずに伝わるのが一番なのですが、問題は必ず変化してしまうということ。これはある意味仕方のないことです。というのも、武術というのは舞や踊りではないので、形どおりをきちっとやればいいというものではないってことです。
今日の稽古でも、2名参加でしたが、最初のつかみのところでさっそく二人が違うことをしてるわけですから。というか、同じことをしてるはずなんですが、結果違っているわけです。そういうことはままあることだと思うのですが、それが伝わってしまうと、次の代のところではさらに変わってしまうわけです。そうやって、だんだんと複雑怪奇な技が造りあげられてしまうのです。
どこの流派でも言えることだと思いますが、「なんでこんなことをしてるんだ?」と思ったら、それは伝わるうちに変化したものだと思っていいのかもしれません。ただ、流儀を承継する身としては師匠の教えがすべてですから、たとえ「?」な技であっても教わったとおりを伝えねばなりません。が、その一方でオリジナルの形を探っていくことも大切なのかもしれないですね。それは承継した流儀としてではなく、その派生したものとして伝えればよいのではないでしょうか?
本来武術というのは時の状況により変化していくべきものですが、「古流武術」は変化してはならないのです。それはすでの古典であって戦いのマニュアルではありませんから。そのあたりをしっかりと理解したうえで古流武術に取り組まなければ、結局何が「古流」なのか分からなくなってしまうんでしょうかね。
というわけで、今日は柳生心眼流をやってました。近々先生がお見えになるそうで、ちっとは真面目にやっておきなはれという師匠のお言葉があったとか。
この居合は下半身が重要。もちろん、他でも言えることではありますが、特に脚捌きが慣れないと難しいのです。今やっているのは基本的な型なわけですが、これが重要。というか、これができないと他の型も無理無理ってなわけで、この基本のマスターが欠かせないのです。
しかし、刀、ずいぶんくたびれてきました。そろそろ買い直さないといけないかな?まあ、一昨年あたりからずっと考えていたことではありますが、いざ買うとなると模造刀とはいえ結構な値がするわけです。柔術で使うとすぐにくたくたになってしまうし、かといって、そのくたくたな刀で居合はちと厳しい...
居合用に一振り求めてくださいということか。
しかし、振り下ろした刀がぴしっと止まったときはそれはもう気持ちがいいわけですよ。だけど、心の乱れは太刀筋の乱れというか、ついフラフラとなってしまったり...まだまだ心に迷いがあるようですな。
久しぶりに稽古に出れたわけですが、ここのところ半棒術をやっていたようです。ということで、半棒術をやることに。
前回、稽古に出たときにもやってたのですが、やっぱり間が空くとどうにも忘れてしまうのがツライところ。そうは言いながらやっていると少しずつ思いだしてみたり。
それにしても、昨日は寒かったですね。久しぶりに道着を着て身が締まりましたよ。ずいぶん体がなまってたもんだな、と。きっと、こうやって寒さに耐えるのも稽古のひとつだろうということで。畳も冷たいもんで、2時間もやっていると足が冷え冷えに。
ともかく今年は無事稽古納めということで、来年は1月13日(水)からとなります。新しい人も入ったようなので、少し気合いを入れて...冬の間はなんとか月に1度は稽古に顔を出したいですね。
半棒の特徴はというと...
防御と攻撃のバランスが良いということでしょうか。長さが3尺程度なので以外にコンパクト。でも、間合いはけっこう広く取れるんですね。攻守のバランスということでは、刀でいうところの小太刀と特性が似てはいますが、半棒の強みは「どこでも握れる」ということ。さすがに刀の刃を握るわけいにはいきません。
半棒は言うまでもなく「木」でできているので、刀をまともに受けると当然のことながら斬られてしまうわけで、受け方は気をつけねばならないのですが、基本は受け流すことなので、そのあたりはいまさら言うことでもなかもしれませんね。
攻撃の方ではじつに多彩な攻めができるのが半棒のいいところ。叩く、突く、拉ぐという動作に加えて半棒の持ち方もいろいろ。左右どちらにも変化していくのです。
そんな半棒を稽古でやると...
これがまた実にイヤなもんです。先にも書きましたが半棒は「木」でできていますから、痛いわけです。間違いなく寸止めにしないと、ちょっとでも当たればこれがまた痛くて。なにしろ、武術の基本ではありますが、叩くにしろ突くにしろ、「痛いところ」を攻めるわけですから。
突きなんかもみぞおちだとか喉だとか実にいいところを狙います。まともに入るととんでもないことになってしまうので、稽古のときは相当気合いが入ります。
で、半棒術の何がいいかというと、けっこう実戦向けなのです。刀とかを持ち歩いていると、間違いなくおまわりさんに話しかけられます。だけど半棒はというと、要は3尺程度の長さのものであればいいわけですから。極端な話傘だって立派な武器になるわけです。傘なら持ち歩いていてもなんの違和感もありませんからね。
相手が刀だったら?と言われても、実際、刀を相手にすることはまずありませんよ。先に書きましたが、そんなもの持ち歩いていたらおまわりさんに話かけられてしまいますからね。
さらに半棒術のいいところは「力が要らない」ってことです。3尺の長さと木の重さが余計な力を不要とさせてくれます。なにしろちょっと振り回せば先で当てると相当痛いですよ。しかも、日本刀のように金属でできているわけではないので、重さもしれたもんです。
そんな実戦的な半棒術ではありますが、やはり稽古は大変です。当てないように気をつけないといけないし、もちろん当てられないように気をつけないといけないし。かといって逃げ回ってたら稽古にはならないし。
半棒術はやると分かりますが、柔術の威力を倍増させてくれます。そのくらい威力があるものです。だからこそ、強さを求めて古流武術の世界にやってくる人には簡単に教えていいものではないことも分かります。そんな人に半棒術を教えるというのは狂人に刃物を与えるようなものですから。