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 片山伯耆流は戦国時代の武将、片山伯耆守久安を始祖とする武術である。  居合、剣術、体術等の総合武術で片山流とも称するが、現在まで伝わるのは居合のみ。  最近になって、書伝を基に失伝した腰廻等を起こしたのが「片山伯耆流柔術」。山口県岩国市のとある道場で数人の門下生が稽古をしている。
2024/03月

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 2週間ぶりの稽古でしたが、参加者も多くなんとなく居合から入って少し違く方向に。

 そこで出てくる考え方が最近剣道を通して見えてきた考え方とやはり似ている部分もあり、一つ一つの型について考えさせられることがあったり。

 居合もほとんどが江戸時代を通して洗練され、実戦的でないようなものも見受けられるわけですが、その中にも開祖の考えが取りこまれているのは事実だと思うのです。

 今は型の動きの流れを通してその意味するところを考えているわけですが、そこに必要なのはその当時の時代背景ではないですかね。現代のモノの考え方で当時の動きを見てどれだけ正確にその意味を理解できるかと。

 生活様式も思考形態も全く違う時代のものですから、そこを踏まえて検証しないとなかなか納得のいく道筋が見えてこないのかもしれません。

 幸い、片山伯耆流は書伝が残されており、また、居合が現代まで伝承されていることから、型の意味を考えるには大変助かるわけです。もちろん、書に残すというのはおそらく「ここは変わってもらっては困る」という基本の部分でそれだけが伝わればひとまず「形は残る」というものだと思うわけです。真髄の部分はやはり誰の目に触れるか分からないわけですから口伝として相応の人にだけ伝えられたのではないかと。

 現在は、ひとます形が残っているわけですから、そこからいかに真髄の部分を引き出すか、それを求めてみなさん真剣に研究されていることだと思うんですけど、いかんせん開祖である片山久安に関する情報が少ないんですね。

 晩年は客分として岩国藩に落ち着いていたわけですし、藩の剣術指南もしていたわけですから、もっと記録があっていいと思うのですが、どういうわけかなかなか見つからないわけです。

 そのあたりが分かれば現在やっている腰の廻の理解にもずいぶん役立つのではないかと思うんですけどね。

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 稽古にて後輩を指導するにあたり、口で説明します。実際に技をかけてみせます。そして技を受けてみて実際に口で説明し見せた技ができているかどうか確認します。それでできていることが確認できたらいいわけですが、できていないときはどうでしょう?

 もう一度説明します。そして見せます。で、受けてみます。自分が傍で見るというのも一つの方法ではありますが、傍で見ていたのでは微妙な間違いが分かりにくいものです。明らかに違う場合は傍で見ていても分かりますけどね。

 本来、形をきっちりと真似てしまえばうまくいくはずなのですが、「個人の体格差」がうまくいかない理由になっていることがあります。例えば、自分より相手が大きいときは見た人も同じような体格差の相手とやらないと上手くいかないはずです。もし、逆になると見せるときに相手の懐に入るという動作があったとしましょう。相手が大きければおそらくすっと入っていくように見えるはずです。それを見て、小さい相手に同じような動きをしても当然入れるはずもありません。小さい相手の懐に入るには自分の体を小さくしなきゃなりません。でも、見ているときにはそんな動作はありません。ここがうまくいかない理由の一つではないかと。

 やはり、稽古のときには教えるときに見せる動作でできるような体格差になるように相手を考えてやる必要もあるでしょう。

 が、古流武術の稽古においてここまでしなきゃならんのか?って疑問もあります。師の動きを見てそれを自分でモノにし、それをよしとされればいいわけで、そうでなければ「それは違う」と一言言えば済むだけのような気もします。何が違うのかを考えるのは弟子の役割で師は「教えなければいけない」わけではないですからね。弟子が問うたときに師が教えるのが基本ですよね。

 で、教えるときに口での説明と実際のデモに違いがあったのではまずいわけです。だけど動きを口で説明するのって難しいですね。とくに力の入れ具合だとか、その方向だとか。

 稽古をしながら思ったのですが、師はあまり口を出してはならないのではないかと。聞かれたら「こうだ」とやってみせればそれで済むのではないかと思うわけです。そのときに弟子は体でしっかりと感じ取らねばならないわけで、それを体現できる方法が見つからないときに初めて説明を求めるのが良いのではないかと。

 というのも、実際に技をかけてみせると「なるほど」と言われるので、多分なにかが分かったのだと思います。だけど、やらせてみたらうまくできていない。普通ならここで「ここをこうやって」と説明するわけですが、そこを敢えてもう一度技をかけて見せる、あるいは傍で見てもらうというのが良いのではないかと思ったわけです。

 ただ、そうやっていると「手を抜いているんじゃ?」と思われてしまうあたりが悲しいところではありますが...

 今週の稽古ではほとんど刀を振っていたわけですが、何が難しいかって言うと「刃筋を立てて振る」のが難しいわけです。ちょっと油断するとぐにゃって感じでブレるのが分かるんですけど、これがなかなか。

 ということで、今週の稽古では上段からの振り下ろしを中心にやっていましたが、ときどきやる型の稽古がちょうどいい休憩になるほどにしんどいもんです。構えて振り下ろす瞬間、力を入れるようでいて抜くようでいて、ゆっくり振り下ろすようなイメージで素早く振り下ろすというか...動きにものすごく矛盾があるような感覚と言えばいいのかどうかはなんとも言えないところではありますが。

 しかし、きとんと振れたときは本当に上にあった刃がいつの間にやら目の前にって感じです。どうしても振り下ろす一瞬に力が入ってしまうので、そこは「振っているな」と分かるのですが、スッと刃が降りて、スッと止まったときはちょっと嬉しいものです。しかし、振っていて感じたのは竹刀と木刀、模擬刀でずいぶん感じが違うってとこですかね。もちろん重さの違いとか長さのちがいとかもあるんでしょうけど、同じように振っているつもりでも違うんですね。

 実際刀を振ったのが約1時間。久々にやった感のある稽古になりました。
 来月が演武会ということで、参加する人はそろそろ演武のための稽古にとりかかっているようです。今週は約1年ぶりに師範代が来てました。師範代が来ると「そろそろ演武会だなあ」と思うわけですが。

 久しぶりといえば、しばらく顔を見せてなかった若いのが先週くらいから顔を出しているようです。続くのか続かないのか分からないのでどこまで教えてよいものやら。そんな状態で1年以上たってしまったようですが、本当にやる気あるのかな?

 まあ、やる気があるならそれなりに教えるんですけどね。今週はコイツの相手をしていたので、居合の方はひととおりをさくっと流して終わり。少し思うところがあったので、じっくり時間をとりたいところではありましたが、いつもコイツを指導しているのが演武の稽古で手が取れなかったため、今回の演武会に参加しない私の方にお鉢が回ってきたわけで。

 不動智心流を一手ほど。先に書いたようにどこまで教えていいのかと悩みながらやってるので、教える側もなかなか煮え切らないわけですよ。それでも、1時間弱ほどやって少しは形になったかな?

 演武会まではこんな感じになるんですかね。

 今回の演武会には私は参加できませんので気が楽なもんですが、参加される方はそろそろ何をやるか決め手ください。

 今のところ、片山伯耆流と不動智心流からやるみたいです。


 天神明進流はやらないみたいですが...私がやろうかと思ってたんですけどね。やりたい人がいたらまあ頑張ってください。

 今週の稽古は当初師匠がお休みの予定でしたが、ストレス発散にと途中から来られました。
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