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 片山伯耆流は戦国時代の武将、片山伯耆守久安を始祖とする武術である。  居合、剣術、体術等の総合武術で片山流とも称するが、現在まで伝わるのは居合のみ。  最近になって、書伝を基に失伝した腰廻等を起こしたのが「片山伯耆流柔術」。山口県岩国市のとある道場で数人の門下生が稽古をしている。
2024/04月

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 12月に入って、なかなか稽古に参加できずにいたのですが、第2週目を持って本年は稽古納めとなっておりました。

 来年は第3週目から稽古が始まりますので参加できる人はよろしくお願いします。

 今年は当道場にて居合を始めるというちょっと変わった年になりましたが、来年は居合もですが、柔術の方も少し頑張っていかないと。その前に頑張って稽古に参加できるようにしないと。

 では、よいお年を。

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 講道館柔道と言えば、少しでも武道に興味があれば知らない人はいないでしょう。すでに「世界的なスポーツ」になってしまっていますから。今から書こうと思うのは「JUDO」ではなくて「講道館柔道」についてです。

 ここでは本来片山伯耆流を中心に古流武術について思ったことを書いてきましたが、「講道館柔道」は「古流」と言えるかどうかはやや疑問ですが、間違いなく「武術」です。今の柔道からはちょっと想像しにくいですけどね。

 私がその昔、柔道を習っていたときに寝技についてこう言われました。「寝技で30秒押えこんだら一本になるのは、それだけ押えていたら相手の首を取れるからだ」と。どういうことか分かりますか?柔術の必要性はまさにここにあったわけです。鎧兜を来た節を槍で突けば致命傷を与えられるでしょうけど、刀で斬ったくらいではそうそう体まで斬れるわけではなかったのです。もちろん鉄の塊で叩かれるわけですから、その意味ではダメージはありますよ。

 となると、相手を倒して組みしいた後に脇差にて鎧の隙間からブスリとやるわけです。つまり、柔道において寝技で30秒ってのはその時間であるということなのだそうです。が、考えてみてください。30秒も時間かけていられますか?倒したらとにかく腕なりを極めて動けなくしてブスリとやらなきゃ自分の身が危ないですよ。もちろん、倒された方文字通り必死ですよ。なにもしなきゃそれまでの命なんですから。

 立ち技についても、引き手、差し手をしっかり握って相手を放さぬようにと教わったのですが、これだと結局は力が勝つことになるわけです。柔よく剛を制すではないですね。小さい人が大きい人を投げたりするとよく言われたりもしますが、それをいうなら柔術の方がよほろ当てはまるのではないでしょうかね。力が全てであれば柔術なんか必要ないですから。

 そうは言っても、力がなければ戦場にて大人しく死を待つしかないのかってことにはなりませんね。誰もが死にたくないわけですし、あわよくば相手を倒して手柄を立てたいわけですから。そのための柔術なわけですからね。

 で、講道館柔道ですが、その成り立ちはやはり武術なわけです。ただ、武士だけが学んだらよいというのではなくいろんな人が学ぶための工夫が現在のような形になってしまったわけです。と、この続きはまた今度。

 2週間ぶりの稽古でしたが、参加者も多くなんとなく居合から入って少し違く方向に。

 そこで出てくる考え方が最近剣道を通して見えてきた考え方とやはり似ている部分もあり、一つ一つの型について考えさせられることがあったり。

 居合もほとんどが江戸時代を通して洗練され、実戦的でないようなものも見受けられるわけですが、その中にも開祖の考えが取りこまれているのは事実だと思うのです。

 今は型の動きの流れを通してその意味するところを考えているわけですが、そこに必要なのはその当時の時代背景ではないですかね。現代のモノの考え方で当時の動きを見てどれだけ正確にその意味を理解できるかと。

 生活様式も思考形態も全く違う時代のものですから、そこを踏まえて検証しないとなかなか納得のいく道筋が見えてこないのかもしれません。

 幸い、片山伯耆流は書伝が残されており、また、居合が現代まで伝承されていることから、型の意味を考えるには大変助かるわけです。もちろん、書に残すというのはおそらく「ここは変わってもらっては困る」という基本の部分でそれだけが伝わればひとまず「形は残る」というものだと思うわけです。真髄の部分はやはり誰の目に触れるか分からないわけですから口伝として相応の人にだけ伝えられたのではないかと。

 現在は、ひとます形が残っているわけですから、そこからいかに真髄の部分を引き出すか、それを求めてみなさん真剣に研究されていることだと思うんですけど、いかんせん開祖である片山久安に関する情報が少ないんですね。

 晩年は客分として岩国藩に落ち着いていたわけですし、藩の剣術指南もしていたわけですから、もっと記録があっていいと思うのですが、どういうわけかなかなか見つからないわけです。

 そのあたりが分かれば現在やっている腰の廻の理解にもずいぶん役立つのではないかと思うんですけどね。

 稽古にて後輩を指導するにあたり、口で説明します。実際に技をかけてみせます。そして技を受けてみて実際に口で説明し見せた技ができているかどうか確認します。それでできていることが確認できたらいいわけですが、できていないときはどうでしょう?

 もう一度説明します。そして見せます。で、受けてみます。自分が傍で見るというのも一つの方法ではありますが、傍で見ていたのでは微妙な間違いが分かりにくいものです。明らかに違う場合は傍で見ていても分かりますけどね。

 本来、形をきっちりと真似てしまえばうまくいくはずなのですが、「個人の体格差」がうまくいかない理由になっていることがあります。例えば、自分より相手が大きいときは見た人も同じような体格差の相手とやらないと上手くいかないはずです。もし、逆になると見せるときに相手の懐に入るという動作があったとしましょう。相手が大きければおそらくすっと入っていくように見えるはずです。それを見て、小さい相手に同じような動きをしても当然入れるはずもありません。小さい相手の懐に入るには自分の体を小さくしなきゃなりません。でも、見ているときにはそんな動作はありません。ここがうまくいかない理由の一つではないかと。

 やはり、稽古のときには教えるときに見せる動作でできるような体格差になるように相手を考えてやる必要もあるでしょう。

 が、古流武術の稽古においてここまでしなきゃならんのか?って疑問もあります。師の動きを見てそれを自分でモノにし、それをよしとされればいいわけで、そうでなければ「それは違う」と一言言えば済むだけのような気もします。何が違うのかを考えるのは弟子の役割で師は「教えなければいけない」わけではないですからね。弟子が問うたときに師が教えるのが基本ですよね。

 で、教えるときに口での説明と実際のデモに違いがあったのではまずいわけです。だけど動きを口で説明するのって難しいですね。とくに力の入れ具合だとか、その方向だとか。

 稽古をしながら思ったのですが、師はあまり口を出してはならないのではないかと。聞かれたら「こうだ」とやってみせればそれで済むのではないかと思うわけです。そのときに弟子は体でしっかりと感じ取らねばならないわけで、それを体現できる方法が見つからないときに初めて説明を求めるのが良いのではないかと。

 というのも、実際に技をかけてみせると「なるほど」と言われるので、多分なにかが分かったのだと思います。だけど、やらせてみたらうまくできていない。普通ならここで「ここをこうやって」と説明するわけですが、そこを敢えてもう一度技をかけて見せる、あるいは傍で見てもらうというのが良いのではないかと思ったわけです。

 ただ、そうやっていると「手を抜いているんじゃ?」と思われてしまうあたりが悲しいところではありますが...

 いきなりではありますが、片山伯耆流居合の奥義といえば「磯之波」ですね。後陽成天皇天皇のときに「磯之波」を天覧に供し従五位の下に叙されたというものなのです。当時では大名格の位ですから、この技が相当にすごいものであったと言えるでしょう。まさに奥義ですよ。

 だけど、これがどのようなものであるのかは残念ながら分かりません。そもそも片山伯耆流は片山武助の代で失伝したので、宗家が一子相伝で伝えていたものであったとしたら、この奥義は今に伝わっていないことになります。

 「いやいやこの技は今に伝わっとりますが」と言われそうですが、確かに技というか型としては伝わっているようです。その型を見る機会があったのですが、ただ私が見たものはそれを見たという人が再現したものなので、どこまで正しいものかは分かりません。なにしろそれを見た直後に「実はこうなのかも知れん」と自分流に型をアレンジし始めましたから。が、「本当にこれなの?」というのが正直な感想です。

 普通に「奥義」と聞くとなにやらたいそうなものをイメージしがちですな。ひどいのになると奥義の後に「その2」とか「その3」とか出てきて、しまいにゃ「最終奥義」なんてものも出てきたりするわけですが、奥義ってのは「最強の技」ということではなくて、その流派の理念を体現したものと考えるべきかと。おそらく片山伯耆流に曰く「磯之波」というのは片山伯耆流の集大成に他ならないわけで、実際、これをもとに他の型が作られたと言われてますから。

 で、「磯之波」なんですけど、結局どんなものだったのか?時の権力者がこれを見て大名同格の位を与えたりするくらいですから、よほど感銘を受けたんでしょう。となると、そこで何を見せたのか非常に興味が沸くわけです。

 そこで片山伯耆流の基本の型を見てみると、相手の攻撃をかわしつつ一撃をくらわせ、さらに二の太刀でとどめを刺すという構成になっているかと思われます。となると奥義である「磯之波」もそういった構成の技ではないかと推測できるでしょうか。確かに、見せてもらった限りではそのようになっています。ここから他の型へと派生していったというのもうなずけるものがあります。しかし、片山伯耆流の中に流れる思想・理念を集約したもの、体現したものになっているかと言われるとなにか足りないというか、違和感が残るわけです。そこが解明できたらどうなるかというと、別にどうなるってわけでもないんですけどね。ただ、500年前の時代に生きた人が何を考えていたのかを知ることができるというのもロマンがあっていいんじゃないかと思うのです。

 まあ、片山伯耆流を研究している人はたくさんいることでしょうし、それぞれに思うこともあると思いますから、ここに書いてあることは「磯之波」らしき技を見た人の一見解であると思っていただければいいんじないですかね。

 どうしても一言いいたいというのでしたら、コメントをどうぞ。ただし、公開しますよ。責任ある発言をしたいかたは身元を明かした上でお願いします。念のため言っておきますが、今回書いたことが「正しい」と言うわけではありませんので、単純にこの文章を否定したい方はご遠慮ください。

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