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 片山伯耆流は戦国時代の武将、片山伯耆守久安を始祖とする武術である。  居合、剣術、体術等の総合武術で片山流とも称するが、現在まで伝わるのは居合のみ。  最近になって、書伝を基に失伝した腰廻等を起こしたのが「片山伯耆流柔術」。山口県岩国市のとある道場で数人の門下生が稽古をしている。
2019/11月

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 失伝した片山伯耆流柔術が再興したのは片山家に伝わる書によるものであった。通常、こういった武術では口伝によるものが多く、文書で残るというのはそう多くはない。

 そうはそうは言っても、口伝だけではどうしても形が変わってしまったり、失われてしまったりするもので、技を習得したならばそれを形にして残そうとするのはいつの時代も同じもののようだ。

 つまり、手控えなるものが残されているのだ。もっとも、これがただ単に片山流を学んだ者の手控えであれば一流を再興するには心許ないわけだが、その手控えがいわゆる宗家のものであれば話は別だ。なにしろ、その流派を承継した者が書いているわけだから、間違いはない。

 いや、仮に間違っていたとしても宗家が「こうだ!」と言えばそれが正しいのだ。ましてや、実際にはすでに消え去っているものなので、残されたものはその文書のみ。つまり、そこに片山伯耆流柔術があると言っても過言ではあるまい。

 しかも、この片山伯耆流柔術の素晴らしいところは技が図解されているということだ。私も実際に見てみたが、実に愉快な絵で分かり易く描かれている。

 もちろん、文書でも書かれているので、その二つを組み合わせると、かなりの精度で技を再現することができるように思える。

 それを実際に行った人がいる。その人がこの手控えをなんと1冊の本にしてしまった。それを基に片山伯耆流柔術を再興したのだ。片山宗家から柔術について片山伯耆流を名乗ることを許されているので、当人は片山伯耆流柔術第12代宗家を名乗っている。

 と、失伝したはずの柔術が現存するのはそういった訳である。

 

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 たまには、片山伯耆流について書いてみよう。

 この片山伯耆流が片山伯耆守久安が始めた流派であることはまあいいだろう。もちろん、元々は剣術、居合を中心とした総合武術であったのだが、この世界では居合が特に有名で、現在まで伝わっているのは居合のみと言っていいだろう。

 もっとも、この居合すらすでに直系ではない。片山家ではすでに伝承をしていない。居合はというと、熊本の星野家が分流ながら現在まで伝えている。今、片山伯耆流居合と言えば、この星野派を差すと思っていただいて間違いないと思う。

 剣については私は詳しくないので、省略させていただくとして、本来総合武術としての片山伯耆流は本家では「片山流」と称していたようだ。これはもちろん、剣術から体術、棒術等全てを含めるため、現在では「片山伯耆流」もしくは単に「伯耆流」と言う場合が多いようだ。

 ちなみに、当道場でも以前は居合に合わせて「伯耆流」と称していたそうだ。これは師匠が出した書のタイトルにも「伯耆流」としていることからも分かる。

 が、最近は「片山伯耆流柔術」という呼び方に変えている。

 この片山伯耆流柔術は武助の辺りで一度失伝しているようだ。これは相伝目録から窺うことができる。久安から代々承継されているのだが、武助あたりで名前が終わっている。ということは、そこまでしか伝わっていないということだ。

 では、なぜ失伝した柔術が今あるのか?

 そのあたりはまた気が向いたら書いてみるとしよう。

 古流武術の定義については、明治時代よりも前に存在した武術及びその流派を指すということになる。その意味では「現代武道」に当てはまるのは「柔道」と「剣道」そして「合気道」のみということになる。ちなみに、海外の格闘技は武道には含まれない。なぜなら、武道とは文字通り「武士の道」であり日本固有のものであるからだ。

 ここでは「空手」は武道としては評価しない。古くは琉球時代に行われているのだが、もともと「武士」とは関係のないものであるし、本土に広く伝わったのが明治時代以降のことだからだ。

 では、「武術」とは何であろうか。

 本来、武術とは「兵術」又は「兵法」と言った方が理解しやすいだろう。まさしく「戦いのマニュアル」なのだ。例えば剣術。これは刀での戦い方をまとめたものに他ならない。柔術は徒手空拳での戦い方をまとめたもの。槍術、杖術も然り。

 しかし、こういった武術の諸流派を見ると、いろいろな技があり、それらには技の「名前」がある。そもそも、これが武術について誤解を生む原因であると考える。

 例えば、護身術を考えてみよう。

 一つの例として、「後ろから抱きつかれたときには相手の足の甲を思いっきり踏みなさい」と教えたとしよう。これは相手の攻撃とそれに対する反撃の方法であるが、これをイメージしやするするために、「後虎落し」という名前を与える。そうすると、この名前を聞いたら先の動きをイメージするわけだ。古流武術の技とはこういうことだと理解してもらいたい。

 つまり、大事なのは技自体であって技名ではない。

 では、なぜ「古流」の分岐点が「明治時代より前」となるのか。それは明治時代以降は「武士」の存在がなくなるからだ。つまり、武士あっての武術であり、武士の存在なくして武術など有り得ないのだ。だから、柔道や剣道を「武術」とは言わない。「武道」という。

 では、現在に伝わる「古流武術」がなぜ「兵法・兵術」のような「方法論」としての扱いを受けてないのか?その原因は「江戸時代」にある。

 江戸幕府ができ太平の世が現れるまでは「武術」は実戦論でありまさに「兵法・兵術」であったと思われる。戦争のために武士という職業軍人がおり、彼らは武術を身に付けて有力な大名の傘下に下り、あるいは自ら上を目指していた。片山伯耆流も当時は一貫流などと称していたがその始祖、片山久安は豊臣家の指南役であった。優れた武術を諸侯は求めたのである。

 ところが、江戸時代になり大きな戦争が無くなっても武士という職業軍人は依然として存在した。もちろん、武術も存続している。が、当然、その形は変わっていく。それは、戦いのマニュアルから武士の教養のようなものになっていったのだ。そこに精神論の入り込む余地があった。すなわち、「武士はかくあるべき」という武士の道を説くために武術が用いられたのである。

 そうは言いながらも、武士が存在する以上、当然戦争というものがついて回り、そのために戦いのマニュアルである「武術」は必要であった。そこに現在に伝わる武術の特徴が見られるのではないかと思う。

 そして、武術は明治になり職業軍人である「武士」が消滅すると並行して衰退していく。そこから武術は「古流武術」となるのである。

 そう考えると、「古流武術」というのはその当時の最先端の「兵法」であるが、決して神秘的なものでも格式ばったものでもない。ましてや、精神修養のためになるはずもない。

 また、古流武術はその性格上、一般に普及することを嫌う。それは今の世で言えば、作戦内容が漏れるようなものだ。相手に知られてはならない。それが武術だ。だから、今でも道場の見学を制限しているところもある。ちなみに当館では見学は申し出があれば、よほど怪しいものでなければ受けている。もし、見学をしたいと思う人は当館の館長もしくは門下生まで、風の便りか虫の知らせで申し込んでほしい。

 片山伯耆流柔術とは、豊臣家指南役であった片山伯耆守久安を始祖とする片山流のうち腰廻りを指す。元は剣術を始めとする総合武術であったが、現在まで伝承されているのは剣術(居合)のみである。

 腰廻りは途中、失伝していたが、残された伝書を手がかりに再興されたものである。

 当初は居合に習い伯耆流柔術と称していたが、宗家である片山家より「片山伯耆流」を名乗るべく指示があり、現在では「片山伯耆流柔術」としている。これは伯耆流と称していた居合も片山伯耆流に改めたためである。

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