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 片山伯耆流は戦国時代の武将、片山伯耆守久安を始祖とする武術である。  居合、剣術、体術等の総合武術で片山流とも称するが、現在まで伝わるのは居合のみ。  最近になって、書伝を基に失伝した腰廻等を起こしたのが「片山伯耆流柔術」。山口県岩国市のとある道場で数人の門下生が稽古をしている。
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 今回は演武会についてちょっと書いてみましょう。

 古流武術においては試合というものがありません。なぜなら、意味がないからです。ここに言う古流武術とは実戦の中で自分や他人の命を守るための術であり、結果として敵の戦闘能力を失わしめるものだからです。

 つまり、勝った、負けたというのは古流武術では想定していないのです。

 仮に試合をしたとしても、何をもって勝ちとするのか、或いは何をもって負けとするのかが定義されておりません。柔道や剣道のように「こうなると一本」っていうのがないのです。

 また、ここが重要なのですが、古流武術にはルールというものがありません。これは、結局のところわが身を守ればよいのであって、敵を殺さなければならないわけではないからです。私は全ての古流武術の流派をしっているわけではないのですが、いかなる流派の技であれ「相手を殺す」と記したものはないと思っています。

 剣術においては、おそらくは「斬る、刺す」で終わっていrと思いますが、まず間違いなく最後に「残心」というものがあります。つまりまだ相手に戦闘能力があることを想定しているからこそ「残心」があるのです。このように、刀を持って相手を斬る剣術ですら相手を殺すことを目的としているわけではないのです。

 話はそれましたが、ルールがないので試合というものが成立するはずもないですね。まあ、その場で「こうなったら勝ち」とかいうふうに決めれば別でしょうけど、わざわざ試合などして、己の手の内を見せる理由はどこにもないのです。

 見せてしまえば、当然それは研究され、技としては終わりです。例えば、野球でストレートがくるのかカーブがくるのか、また何km/hくらいの球がくるのかが分からないからバッターは打てないのです。何km/hのどんな球種かが分かっていれば打てる確率はずいぶん上がってきますね。

 技も「こんな技がある」と分かっていればそれに対応するのはそう難しいことではありません。何をしてくるか分からないから対応できないのです。

 そういった意味では演武会というのも本来行う意味がないと言えます。が、片山伯耆守久安が後陽成天皇の天覧に「磯の波」を供したように、ときに技を公にすることがあったようです。もちろん、現在行っている演武会とはずいぶん趣旨が異なるように思いますが。

 ちなみに我々は本来の技をそのまま演武会で披露することは、まあ、ありません。多少なりともショー的味付けをしてますので、分かる人が見ればたぶん分かると思います。やはり、流派を丸裸にするわけにはいかないという心理がどこかにあるのだと思います。

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