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 片山伯耆流は戦国時代の武将、片山伯耆守久安を始祖とする武術である。  居合、剣術、体術等の総合武術で片山流とも称するが、現在まで伝わるのは居合のみ。  最近になって、書伝を基に失伝した腰廻等を起こしたのが「片山伯耆流柔術」。山口県岩国市のとある道場で数人の門下生が稽古をしている。
2025/05月

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 今回は演武会についてちょっと書いてみましょう。

 古流武術においては試合というものがありません。なぜなら、意味がないからです。ここに言う古流武術とは実戦の中で自分や他人の命を守るための術であり、結果として敵の戦闘能力を失わしめるものだからです。

 つまり、勝った、負けたというのは古流武術では想定していないのです。

 仮に試合をしたとしても、何をもって勝ちとするのか、或いは何をもって負けとするのかが定義されておりません。柔道や剣道のように「こうなると一本」っていうのがないのです。

 また、ここが重要なのですが、古流武術にはルールというものがありません。これは、結局のところわが身を守ればよいのであって、敵を殺さなければならないわけではないからです。私は全ての古流武術の流派をしっているわけではないのですが、いかなる流派の技であれ「相手を殺す」と記したものはないと思っています。

 剣術においては、おそらくは「斬る、刺す」で終わっていrと思いますが、まず間違いなく最後に「残心」というものがあります。つまりまだ相手に戦闘能力があることを想定しているからこそ「残心」があるのです。このように、刀を持って相手を斬る剣術ですら相手を殺すことを目的としているわけではないのです。

 話はそれましたが、ルールがないので試合というものが成立するはずもないですね。まあ、その場で「こうなったら勝ち」とかいうふうに決めれば別でしょうけど、わざわざ試合などして、己の手の内を見せる理由はどこにもないのです。

 見せてしまえば、当然それは研究され、技としては終わりです。例えば、野球でストレートがくるのかカーブがくるのか、また何km/hくらいの球がくるのかが分からないからバッターは打てないのです。何km/hのどんな球種かが分かっていれば打てる確率はずいぶん上がってきますね。

 技も「こんな技がある」と分かっていればそれに対応するのはそう難しいことではありません。何をしてくるか分からないから対応できないのです。

 そういった意味では演武会というのも本来行う意味がないと言えます。が、片山伯耆守久安が後陽成天皇の天覧に「磯の波」を供したように、ときに技を公にすることがあったようです。もちろん、現在行っている演武会とはずいぶん趣旨が異なるように思いますが。

 ちなみに我々は本来の技をそのまま演武会で披露することは、まあ、ありません。多少なりともショー的味付けをしてますので、分かる人が見ればたぶん分かると思います。やはり、流派を丸裸にするわけにはいかないという心理がどこかにあるのだと思います。

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 今週(11月14日)は道場のカギを開ける人がいないので稽古はお休みします。

 また、来週から稽古は行われると思いますのでよろしくお願いします。
 今週も柳生心眼流と不動智心流をやりましたが、なかなか間合いを見極めるのが難しいですね。

 人が変われば間合いも変わるわけですが、慣れてないとなかなかこのあたりの調整がうまくいかないのです。この間合いは、きっと意識しなければ自然にとるものだと思うのですが、こうやって稽古のときだとそれができないわけです。

 その理由の一つは「稽古のときは安全」という意識があるからです。つまり、技をかけるときに受けがまず突きや蹴りを出してくるわけですが、本気で突いたり蹴ったりするわけではないんですね。だから、失敗しても痛い目にあうことはない、と。

 ところが、いきなりナイフを向けられたりしたら...

 とっさに構えるのですが、そのとき無意識のうちに安全な距離をとろうとします。それが、その人の間合いなのです。これは相手が素手のとき、ナイフを持っているとき、刀を出したとき(まあ、これは普段はありませんが)と状況によりその間合いは変わってくると思います。

 なぜなら、きちんとかわせないと自分が痛い目を見るからです。

 今回は、最初に寸止めをするのか、本気で当てるのかを言ってから突きを出しましたが、その効果ははっきり出てしたわけです。寸止めだとうまくかわせるのに、当てるとなるとうまくかわせないんですね。

 これは、「寸止め」⇒当たらない⇒型どおりに動ける、「当てる」⇒逃げなければ⇒型どおりに動けない、となるのですが、型どおりに動けば間違いなくかわせるわけです。なぜなら、どこを狙っているのかが分かっているからです。実際には突きがくるのか、蹴りがくるのか、どこを狙ってくるのかわからないのですが、稽古では決まってますからね。

 それでも、型どおりに動けないのはやはり恐怖心があるから。それはすなわち、自分に自信がないから。こればっかりは稽古を通して付けていくしかないんですけおどね。
 今週は都合により稽古には参加できませんでしたが、ここのところ、柳生心眼流もやっいるので、刀が一振り欲しいなと思うわけです。

 今までは、柔術で使うことえお前提に考えてましたからなかなかいいものには手が出せませんでしたからね。なにしろ、身は投げる、鞘も投げる、下手したら体の下敷きに...

 まあ、こんな感じですので今の刀は刃が波打ってる状態で何度も曲げを直している状態。居合にはいささか不向きなものになってますね。

 しばらくは今のを使いながら、長さなど検討してそのうち良さそうなものがあれば手に入れたいものです。
 そろそろ寒くなってきたので稽古が辛くなってきますが、今週も普通にありますのでみなさん参加してください。

 ちなみに、現在ホームページを作成しております。コンテンツでなにかご要望があれば私まで連絡してください。一応、今のところは「片山伯耆流の歴史」「柔術について」「道場紹介」「ブログ」となっています。

 公開時期は未定ですが、まあそのうち公開します。気が向いたら演武会の写真でもUPしてみますかね。公開したらお知らせしますので...
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